沿革

長岡の工業の生い立ち

●長岡の経済の発展が着々と進んでいたとき、さらにその動きに大きな刺激を与え、発展をうながしたものは石油業であった。
明治20年、三島郡出雲崎町尼瀬(あまぜ)での石油機械掘りの成功に刺激されて明治21年ごろから東山のふもとの浦瀬方面でも機械掘りによる開発が活発におこなわれた。
原油は長岡に運ばれ、中島地区の宝田石油会社やその他の精油所で精製された。

●長岡の発展に大きな力となった東山油田の石油掘りが最も盛んであったのは、日清戦争(明治27年~明治28年)のころから日露戦争(明治37年~明治38年)のころまでで、井戸の数は約800、採油の区域は浦瀬地内の東山一帯で、南北約4キロ、東西約1キロにも及んだ。

●また、東山油田の出油量は明治40年ごろが最高で、当時の長岡は石油の町・相場の町として全国的に有名であった。市制の施行 (明治39年4月1日) にもこのような背景があった。
また、石油業は他の産業に大きな影響を与えた。石油井戸を掘る機械の製作や修理、東山から原油を運ぶ鉄管の必要などから、機械工業や鉄工業が急速に発展した。

●しかし、大正の中ごろから採油量は年々減り、石油景気の衰えは他の産業界にも大きくひびき、つぶれていく会社もたくさんでてきた。そして、その後も東山油田は衰えか一方で石油業もさびれ、昭和20年ころには全くの廃坑となってしまい、今日では発生地の名を残すだけとなった。

●昭和の初め、日本をおおっていた不景気の雲も昭和6年の満州事変とともに消えていった。この戦争によっておこった景気は市内の鉄工業界に活気を与え、工業都市長岡への体制をうながした。
長岡市でも工業都市促進の方針が強くうちだされ、整備計画どおりに城岡・蔵王地区の約32ヘクタール(10万坪)の水田がうめたてられて工業用地になった。そして、積極的に工場をまねき、従来からの北越製紙工場や北越電化工場などに合わせ、ここに「蔵王工場区」が生まれた。

●昭和10年から昭和15年までに新しく集まった主な工場にはおおよそ次のものがあった。
大原鉄工所、新潟鉄工所長岡工場(ニイガタローディングシステム)、日曹第一機械工場(三菱マテリアル)、津上安宅製作所(ツガミ)、日本繊維工業会社(後の呉羽紡績、今は移転)、大阪機械製作所(オーエム製作所)、日本重工業会社(クラキ)

1907(明治40年)
長岡東山油田の盛況に着目し、大原石松が長岡市長町に削井機械部品の鋳造を目的とし大原鋳造所を創業する。
1924(大正13年)
機械工場と組立工場を併設し完成機械の製造に着手し、大原鋳工所と改称する
1932(昭和7年)
日本石油株式会社からマッドポンプを受注し、石油削井機器を会社の主力製品とする基礎を築く。
1938(昭和13年)
大原藤松が長岡市城岡(現在地)に工場を移転し、大原鉄工所と改称する。
1939(昭和14年)
東京出張所高浜工場を開設する。
1940(昭和15年)
有限会社大原鉄工所を設立し、大原藤松が代表取締役社長に就任する。
1944(昭和19年)
製缶溶接工場と鍛造工場が完成し、鉄工業としての一貫生産体制を確立する。
戦災により東京の高浜工場を閉鎖し、現在の湯島に東京営業所を移転する。
1945(昭和20年)
株式会社大原鉄工所に改組する。
戦後の国内資源開発の重要性に着目し、農業土木用及び水力発電用水門機器の研究製作に着手する。
1947(昭和22年)
変電送電等の電気工事を目的とした電業部門を新設する。
1950(昭和25年)
鉱山のスライム輸送及び微粉炭や重油輸送用にスライムポンプを開発販売する。
1951(昭和26年)
新潟県の委託による雪上車研究開発に着手し、試作一号機「吹雪号」を完成させる。
1952(昭和27年)
吹雪号が国家警察本部に採用され、量産に着手する。
雪上車の開発に関し、新潟県技術賞を受賞する。
1953(昭和28年)
防衛庁技術研究所との共同研究により、防衛庁型雪上車の試作生産に着手する。
1954(昭和29年)
油田探査のための自走式試錐機を開発する。
1956(昭和31年)
雪上車に関わる技術開発の奨励のため、高松宮殿下の台臨を仰ぐ。
1957(昭和32年)
フランスのネルピック社との技術提携により、灌漑排水用の自動水位調節水門を製作販売する。
創業50周年を迎え、大原松夫が取締役社長に就任する。
1959(昭和34年)
屎尿高速化学処理装置の開発に着手し、環境事業の第一歩を踏み出す。
同時に廃水処理用の連続回転真空濾過器を開発する。
雪上車の実用化に対し、全国発明実施賞を受賞する。
1960(昭和35年)
会社厚生施設「藤石荘」が落成する。
大原鉄工所に安岡正篤先生をお迎えし、講演と当社の社是となる「利者義之和也」の揮毫を頂く。
雪上車の開発に対し、科学技術庁長官賞を受賞する。
1962(昭和37年)
当社専務取締役上村清五郎、商工会議所会頭に就任する。
上村清五郎、会頭を辞任し第14代長岡市長に当選する。
1963(昭和38年)
雪対策として、鉄道線路の側雪除雪用にロータリー除雪車を開発する。
1965(昭和40年)
電業部門を分社し、大原電業㈱を設立する。
高周波焼入加工を目的とし新潟高周波工業㈱を設立する。
1967(昭和42年)
経済企画庁の豪雪対策事業として雪上車の販売拡大に伴い、札幌に北海道出張所を開設する。
製缶溶接工場の拡張のため、長岡市下々条に黒条工場を建設する。
新規開発した小型雪上車が第9次南極観測隊に採用される。
創業60周年を記念し、社訓を制定する。
1968(昭和43年)
発電所取水ダム用に自走油圧式除塵機を開発納入する。
1969(昭和44年)
空港の航空機給油設備として、サージアブソーバー及びハイドランドピットを開発納入する。
スイスのシュロイニーガー社と技術提携を結び、ラトラック型ゲレンデ整備車の製造に着手する。
1970(昭和45年)
アメリカのナショナルサプライ社と技術提携を結び、石油掘削用のトリプレックススラッシュポンプの国産販売を開始する。
汚泥脱水機チェーンドライブフィルタを開発する。
1972(昭和47年)
札幌冬季オリンピックにゲレンデ整備車のオフィシャルサプライヤーとなる。
1973(昭和48年)
下水処理場向けの余剰汚泥処理脱水機、MSPフィルタを開発する。
1976(昭和51年)
当社社員を南極観測隊越冬隊員として派遣を開始する。
1977(昭和52年)
発電所用水圧鉄管の溶接技術を確立する。
農業土木用のネット式除塵機を開発する。
1980(昭和55年)
地熱エネルギー開発用掘削装置及び生産装置を製作開始する。
1981(昭和56年)
全油圧駆動式ゲレンデ整備車を開発し量産を開始する。
1985(昭和60年)
下水処理場向けのSBPベルトプレス汚泥脱水機を開発し建設省の技術認定を受ける。
1986(昭和61年)
フランスのネルテック社との技術提携により、農業土木用のデスクバルブ装置を製作販売する。
1989(平成元年)
温泉掘削リグの製作販売を始める。
1990(平成 2年)
マイナス90度に対応する南極観測用大型雪上車が完成し、南極への納入が始まる。
1993(平成 5年)
新型ゲレンデ整備車製作のためにFRP工場を新設する。
ゲレンデ整備車のコンセプトマシン、DL270が完成し、通商産業省グッドデザイン賞並びに中小企業庁長官賞を受賞する。
1994(平成 6年)
農業土木用ネットスクリーン除塵機を開発販売する。
1996(平成 8年)
汚泥脱水機スクリュープレスを開発する。
1998(平成10年)
スイスのツァーグ社と技術提携を結び、スノーボード用のハーフパイプ造成アタッチメントを輸入販売する。
ISO9001の認証を取得する。
大原松夫逝去し、大原興人が取締役社長に就任する。
2000(平成12年)
アメリカのWSM社とリサイクル機器のライセンス契約を結び、製造販売を開始する。
2001(平成13年)
アメリカのBHS社とリサイクル機器のライセンス契約を結び、製造販売を開始する。
2002(平成14年)
アメリカのLMC社のゲレンデ整備車の製造販売権を取得する。
2003(平成15年)
日本下水道事業団の下水処理設備工事のAランクを取得する。
アメリカのコマー社とリサイクル機器のライセンス契約を結び、製造販売を開始する。
2004(平成16年)
ISO14001の認証を取得(本社・東京支店)する。
アメリカのSSI社とリサイクル機器の輸入販売契約を結ぶ。
中越地震が発生し工場に被害を受けるが年内に完全復旧する。
2005(平成17年)
韓国のスノーテック社とインドアスノーマシンの技術提携を結び、販売を開始する。
2006(平成18年)
㈱新潟鐵工所より掘削機器事業を取得する。
2009(平成21年)
プラント事業拡大のため大阪営業所を開設する。
2010(平成22年)
フランスのAZTEC社とライセンス契約を結び、ゲレンデ整備車の技術を供与し現地生産を開始する。
消化ガス発電設備を長岡技術大学と共同開発する。
2011(平成23年)
消化ガス発電設備を製品化及び拡販する。
2012(平成24年)
陸上自衛隊78式雪上車に代わり新たに装備化された10式雪上車の納入を開始する。
2013(平成25年)
東北営業所を新設し、事業拡大をはかる。